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AOYAMA ROUND THEATRE PRODUCE

オガワは、年々住民が減り続けている都市近郊の公営団地に、一人で住み続けている。
過去に、結婚はした。
だが、気がついたらいつのまにか妻はいなくなっていた。
子供もいない。
しかし、一人でいることに今のところは問題を感じていなかった。
「いずれ、老人になったら、それなりに考えればいい」

この団地は、近々、民間企業に売却されることが決定している。
すでにほとんどの住民が保証金を手に移住していった。
オガワは行政の方針に反対しているわけではない。
ただ新たな住居を探すのが億劫なだけだ。
「いずれ、誰かが適当に処理してくれるだろう」

オガワは証券会社に勤めていたが、早期退職して、現在はその退職金を切り崩して生活している。
基本的に生活に必要なものはネットで購入している。
初老の宅配便の配達員が、オガワが日常的に出会う唯一の生きた人間だ。
最近、買った覚えのないものの代金が差し引かれることが頻発した。
「いずれ、調査をしてもらわないと」

問題を先送りすることこそが資本主義の本質である。
そして、この国は資本主義国家であることを表明している。

人が住んでいないのだから、周辺はとても静かである。
だがオガワは、室内でもノイズ・リダクション機能のイアフォンをしている。
外部音を遮断しているのではない。
デジタル・ドラッグを聴いているのである。
デジタル・ドラッグとは、脳の特定の範囲を刺激する周波数の組み込まれた音楽で、ドラッグと同じ効果がある。
いくらでもコピーができる。
そのため、格安の値段で手に入る。
誰が何のために作り、広めているかは不明だが、中毒になるとより激しいバージョンを求めるようになる。
"ヴィデオローム"のような得体のしれない悪意を感じさせる。

そんなオガワにも、定期的に会話する相手が一人いる。
アマリである。
アマリは、ネット上で知り合ったチェスの相手である。
会うのは、ネット上のチェスルームのみ。
つまり、オガワにとって、アマリはヴァーチャルにしか存在していない。
オガワは勝手にいつも宅配便を届けてくれる配達員をアマリに擬えている。

オガワはアマリに一度も勝ったことがない。
チェスの相手というよりは先生である。
チェスをしながら、デイトレードのことをチャットする。
アマリは、元証券マンのオガワの情報を元に、だいぶ儲けているらしい。
オガワにデジタル・ドラッグを教えてくれたのはアマリだった。

最近になって、オガワはライフログを始めた。
とにかく、自分の日常を何から何までコンピュータに記録する。
いつでもデジカメとスマートフォンを持ち歩き、見たものを撮影し、メモを取り、GPSで取得した位置情報をコンピュータに送り続ける。
持っていたCDやDVDはことごとくデジタルデータに変換し、本は裁断してスキャナーで読み込み、コンピュータへ移した。
結果的に、部屋の中には、人の住む気配がどんどん消えていった。
「これでキップル(ゴミ)から開放される」

オガワは、知ることよりも感じることを重要視してきた。
だが実際には、感じるためには知らなければならないと思い込んで生きてきた。
すべての知識を得ようとし、鬼のような形相であらゆることの意味を知ろうとした。
しかし、情報は無限にあってオガワの時間は有限である。
知ること、理解することは、容易に限界に達する。

「なぜ限られた時間しか生きられないのか?」

ジレンマ──そして、中年になっていた。
自覚もなしに、人生の折り返しをとっくに過ぎていた。
このままでは生きた証が何も残らない。
そこでオガワはライフログを始めた。
思い出の品はすべてデジカメで撮影し、膨大な量の書籍、印刷物、写真、CD、DVDを、デジタルに変換して、クラウドに貯めこんでいくのは、オガワにとって最適な時間の過ごし方となった。
モノトーンだったオガワの人生が、カラフルなものであったことを再認識させてくれた。
世界中がオガワのために存在しているような、王者の気分さえ味わえた。

都市再開発機構の職員と名乗るウサミが、行政執行官イタバシを連れて現れた。
このままここに居座り続けると、住基カード、公的個人認証カード、社会保障カードなどから、登録された名前を剥奪する、とイタバシが言う。

「つまり、存在を消されるということです」

人間は社会的にしか生きることができない。
名前を剥奪されると、主観的には生きているのに、存在しないことになる。
生物としての実態は認識されるのに、存在しないことになる。
相対的存在と絶対的存在で言えば、社会の中で人間とは相対的存在でしかないのだ。
この世のあらゆるものが相対的であるなら、自己とはなんであるのか?
どっちにしても、これまで生きてきたのと同じだけ時間が経過すれば、自分は間違いなくこの世に存在しない。
いや、そもそも、自分はすでに存在していないのではないか?とオガワは考えた。
結婚していたときから、ずっとセックスレスだった。
家庭も持たず、会社にも所属しておらず、ゴーストタウンに一人で住み、誰とも触れ合わない。
まさにここは墓場。
オガワはまさに墓場に住む亡霊と同じ。
そんなある日、オガワの前にエンドウと名乗る男が現れた。